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「世界」に私を連れていって

気がついたら夏が終わりを迎えていた。夏の終わりの微熱感がぼくは好きだ。いつもよりもセンシティブに物事を受け止め、いつもよりもエモく物事を考えてしまう。だからなのかもしれないが、志磨遼平が率いるドレスコーズというバンドの『聖者』のMVが頭から離れない。ぼくは眠れない夜、YouTubeでライブ映像かMVを見てしまう癖がある。それによって眠りにつきやすくなることなどないのだが、眠れない夜には最適なのだ。

ぼくは音楽批評や映画批評なんて、これまで一度たりともやったことはない。だけどこの夏の終わりの微熱が残っているうちに、どうしてもこの気持ちを吐き出しておかねばならない、と思ったのだ。<サマーデイ・サマーナイト>のうちに、『聖者』を皮切りに他の2本のMVを横断しながら、ぼくの思いの丈を語りたい。ひとつは銀杏BOYZの『GOD SAVE THE わーるど』であり、もうひとつは踊ってばかりの国の『Boy』である。ぜひ3本とも観てほしい。そして、夏の終わりに、この3本のMVが描いている「世界」に連れ出されよう。

私が連れ出された「世界」

ドレスコーズ『聖者』MV

このMVが公開されたのは、夏がきわまる2022年の8月である。ぼくはスペインにいたため、日本がどういう状況だったかわからないが、夏は夏だろう。夏にこのMVを観てしまったら、もう忘れることができない(人が多い)だろう。曲のポップさをそのまま転写したかのような、淡々とした邦画のロードムービーにありそうなテイストのMVだ。

学生服の少年が漕ぐ自転車の隣を、ピースマークを背負ったスカジャンの少女が乗る原付が追い越していく。その少女は、溶けたアイスクリームに溺れるハエに手を差し伸べるように、自転車の少年の手を引くのだ。エモい。少年の心はハエになぞられ<ぼくは君の駄目な天使>と、ネガティブさを口にする。

だけれども、自転車よりも速い原付と少女が、少年を「世界」へと連れ出す。ここでいう「世界」とは、規範や制度に支配される「社会」とは全く異なる空間であり、人間の関係性の中で共有される空間のことである。この「世界」のイメージはメリーゴーラウンドの幻想的なシーンによってMV中に描かれている。また<きみとぼくが 今光にとけていく>と歌詞にもあるように、ふたりだけの「世界」が生まれていく様子が、全体を通じて描かれている。

しかしMVはここで一転する。少年を「世界」に連れ出した象徴である原付によって事故が起こり、ふたりの時間は突如として終わりを迎えてしまう。信じられないほど切ない。だけども、少年は「世界」を守り続けようとする。同じ原付に乗り、少女が着ていた青いスカジャンを羽織り、火を放つのだ。<夏がいつか きみをつれて去る前に くちびると罪をかさねて>とあるように、少年はこの「世界」が永遠ではないことを悟っている。だけども、その「世界」が終わってしまうその前に、夏の夜に花火を使って少年は火を放つのだ。

こんな切ない終わりを迎えるMVと、終始ポップさを貫き通す楽曲のギャップに驚く。そのギャップを埋めるように、ジョーカー風(?)のメイクをした志磨遼平がMVに登場している。彼は間奏(メリーゴーラウンドのシーン=少女が亡くなる直前)でも、少年と少女の世界の空気とは離れたところで、曲に合わせてステップを踏んでいる。最後に少年が火を放ち、原付を走らせているときにも、志磨遼平はただその横を淡々と歩いているのだ。夏が終わって、人生を淡々と耐えなければならないとしても、その世界はあったんだ(=<これだけはほんとうにそうさ>)と、この曲は言っているのかもしれない。

「世界」への行き方

銀杏BOYZ『GOD SAVE THE わーるど』MV

ぼくは『聖者』の「神さまはいないよりもいてほしい」というリリックが好きだ。MVではまさにこの瞬間に少女が亡くなる。つまり神様がいてくれたら、少年と少女の世界はもっともっと続いていたかもしれないということだろうか。神様に祈って、この「世界」が続くことをピュアに求める曲が、2曲目の銀杏BOYZ『GOD SAVE THE わーるど』になる。全てのMVの中で、ぼくはこれを一番観ている。それくらいに好きなMVだ。

このMVは、昨年の6月(夏のはじまり!)に公開されており、4人の少女たちの「世界」が描かれている。とにかくこの4人、素晴らしい。このMVの好きなところを書き始めたらキリがないので、今回は「世界」への行き方に焦点を絞って、少女の中でも一際地味な、堀田真由が演じる少女に注目したい。

この少女はMVを通じて「世界」への入り込んでいく。彼女は夜の渋谷PARCOに侵入する最後尾だったし、アルコール消毒もするし、ヘルメットもサングラスも持たなかった。つまりは、典型的な普通の子だし、社会規範に縛られているような印象を受ける。4人でペイントをしているところに警備員がやってくるシーンでも、一番先にその存在に気づき「やばい」という顔をするのも、この少女である。

そんな少女が、ランジェリーショップ(=女の子たちの空間)で服を変え、みんなとお揃いを着て、「世界」に大きく踏み込んでいくシーンがある。まさに<願いをかけて 呪いをといて>いるのである。そして<今夜すべてゆるして ここにいたいんだ>と続く。これはみんなのセリフであるだろうが、より一層地味だった少女のセリフに聞こえてくる。これを少女たちの「世界」と呼ばずして何と呼べば良いのだ!

峯田はこの曲で<リバーズ・エッジ>や<リバー・フェニックス>といった横文字を、言葉遊びのように用いているが、これは単なる言葉遊びではないだろう。まさに仲間だけの「世界」という意味で、死体の存在を共有する<リバーズ・エッジ>も、少年4人が線路に沿って旅をするスタンドバイミーの<リバー・フェニックス>も、峯田にとっては地続きな世界線なのだと思う。

「世界」と「社会」のはざまで

踊ってばかりの国『Boy』MV

峯田はとにかく「世界」へ行くことを目指していたように思う。だから「すべてのことが起こりますように」とピュアに祈るのだ。これを簡単に社会から世界へ、と整理すると、次に観る踊ってばかりの国の『Boy』は世界から社会へ、を考えるMVとなっている。このMVの公開年は他の2本に比べて少し早く、2018年の5月である。『Boy』はこれまたぼくの大好きな曲で、結婚式のエンディングでこの曲を流したりした。

MVは朝焼け(もしかすると夕焼け)のシーンから始まる。このMVには高校生の非行(万引き・窃盗・喫煙など)シーンが序盤に繰り広げられる。だから物議を醸したらしいが、ここでは非行をした後の清々しいまでの彼らの笑顔が「世界」の存在を物語っているという見方をしたい。(というかMVにポリコレをぶつける奴は消えてほしい。)体育館の倉庫でセックスをすることは、性欲の暴走だとか校則違反だとかを超えて存在する、ふたりの「世界」を形成する営みなのだ。

ここでまた少年を「世界」へと誘う、少女が登場する。この図式は『聖者』と同じだと理解できるだろう。海辺でダンスを踊る少女に話しかけようとする少年。その問いかけを振り払い、少女はリズムの中に少年を巻き込んでいくのだ。ここでふたりの「世界」は形成されていく。

この2組のカップルが、音楽とダンスと火というプリミティブな悦びに浸るところが、このMVの中心的なカットになる。この楽園のような場所もまた彼らにとっての「世界」であり<パパとママにはずっと内緒>なのだ。間奏が終わりサビに入った瞬間に、この楽園にバンドメンバーが現れる。その映像にはノイズが入り、何だかこの音楽が必要な4人の少年少女の目の前にだけ現れたような雰囲気がする。それは下津が<あのチャンネルには映らないようにね>とマスのための音楽にならないことを誓いながらも、<雲を抜け 屋根を抜け 届くわ>とこの音楽を必要とする人(=MVでは4人の少年少女)に力強く届かせようとしている表れではないだろうか。

しかしこのままユートピアで終わらないのが、このMVのさらに良いポイントだとぼくは思う。一人の少女はこの楽園でも常に制服を着ている。つまり規範や制度を意味する「社会」のモチーフとなっている。この少女は最後、浮かない顔でタバコを吸いながらこの楽園を後にするのだ。最後、彼女に何があったのかははっきりしないが、楽園(=「世界」)を抜けようとしたところから、「世界」と「社会」のはざまで葛藤する少女を観ることができる。この少女の彼氏だった少年は、このはざまを本人も知ることになるだろう。「世界」を思い出しながらも、MVの序盤でぼんやりと海で佇むこの少年は、そんなことを考えていたのではないだろうか。

「世界」を探そう

この手のMVのYouTubeのコメント欄には、「青春」だとか「思春期」だとか、そういう自分の人生の若かった頃を思い出すようなセンチメンタルな感情が散見される。わかる。ぼくもそう思いながらMVを見てきた日もあった。だけれども、同時にここで描かれているのは「世界」の存在だろう。「青春」とか「思春期」には戻れなくても、今いる友人・仲間・恋人・家族との「世界」を探すことはまだ間に合うはずだ。<これだけはほんとうにそうさ>と思える「世界」は、自分と「社会」との間にあるのではなく、自分と他者とのあいだに転がっていると思う。少なくともここ数年のぼくの好きなジャパニーズ・ロックは、そう言っている気がする。

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