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映画「怪物」がよかった

映画「怪物」は生まれ変わっても忘れないだろう、という程に胸に刻まれる映画だった。映画の読解としては文字通り「怪物」がキーワードになってくるだろうが、この映画はそれ以上のものを(個人的には)含んでいる。あまりの衝撃で、最後の30分はハンカチを手放せなかったので、新鮮な感情をここHUMARIZING(ヒューマライジング)に書き起こしておく。

注意事項としては
①この文章はぼくの独断と偏見がふんだんに盛り込まれている
②映画「怪物」に興味がある人は作品を見てから読むのがおすすめ
③1回見ただけの記憶なので描写を間違えている可能性もある
といったところだ。

そして、本題に入る前に、ぼくがクィアであることもお伝えしておきたい。そうした立場であるからこそ、この作品をこれから述べるような受け止め方をしている可能性が高いと思っている。ポジショントークをしたいわけではないが、そういった側面が含まれることも留意いただきたい。

なぜキーワードとしての「怪物」以上の映画なのか

単刀直入に言うと、ぼくはバイセクシャルで、主人公の少年・麦野湊にとても共感したのだ。個人が特定されることが相手にとって好ましくないため、多くをここには記さないが、ぼくは同じ集団にいる同性と特別な関係になっていた時期がある。まさに麦野湊と星川依里の関係に近い。当時のぼくたちもまた、その関係について誰かに話すことはなく、集団の中ではお互いのことを遠ざけていたように思う。そんな中でも、ふたりで会える時間はとても楽しかったのを覚えている。

ぼくにとってはじめての特別な関係がその人とだったので、自分の感情に整理がつかなかったことも、今でも鮮明に覚えている。当時のぼくにとっては異性愛が当たり前のことであって、今の自分の状況は何か普通ではないということを認識していた。そして異常だとも思っており、誰にも言うことのできない悩みでもあった。でも、この誰にも言うことのできない、という状況は、同時にふたりの親密さを加速させるものでもあった。

そういう恋愛・性愛を経験している自分としては、湊の感情に移入しない訳にはいかなかった。学校からの帰り道、あえて距離をとって下校していたシーンがとても良かった。後ろに湊がいることが分かっていて、わざと転ぶ依里の姿が印象的だった。ふたりが一緒になり、湊が片方の靴を依里にあげたとき辺りから、ぼくは涙を流していた。それは湊の単なる優しさを超えて、自分の半分を相手に託すという絶大な愛の物語がスタートしたからでもある。

それ以降は(あえて「怪物」に触れないのだとすると)綺麗な物語として受け取ることも可能だ。廃線跡のトンネルを抜けた先にある車両はふたりにとってのユートピアだった。現に、嵐の警報サイレンを聞き、ふたりは電車(=ユートピア)が出発する合図だと受け取っていた。

この映画の特徴でもある3部構成を経ているからこそ、このような物語が一層美しく映るようになっていると思う。クラスの注意を引くために暴れたことも、煙がバレないように水筒を使って火を消したことも、もちろんあの片方しかない靴も、全て湊が依里との関係を想ってやったことで、そうしたシーンに超越的な愛の存在を再発見することができる。1部の麦野早織(湊の母目線)の物語や、2部の保利先生の物語では違うように写ってしまう、ふたりだけの世界にとても感動した。

そして何より、3部の湊と依里の物語で描写される映像が綺麗すぎる。極め付けは最後、嵐の後に出た草原の描写は美しすぎた。あれはぼくにトドメを刺してきた。細かい設定でも、土砂崩れによってか、橋の前にあったはずのフェンスがなくなっていた。最初に依里が湊にこの場所を案内した時に、そのフェンスの前で、そこは行き止まり、というようなことを言っていた。警報のサイレンで電車が出発して、嵐が過ぎ去って、彼らの行き止まりは消えたのだ。それもまた印象的なシーンだった。

やっぱりぼくが最初に述べたような実体験をしていることもあってか、こういう友愛・恋愛・性愛に対する描写が強く印象付けられるような映画だった。そういう意味において、この映画はキーワードとしての「怪物」をはるかに超越しているのだ。

でも「怪物」についても考える

ここまで述べた内容は、ある特定の経験を経たことのある人(マイノリティ)でないと共感できないかもしれない。現に、一緒に見に行ったパートナーは、ぼくの涙に驚いているようだった。このマジョリティにはあまり理解されないかもしれない感情を、映画の中心的なストーリーとして添えられていることが、この映画がクィア映画として評価されている理由かもしれない。

でもやはり「怪物」についても考えなくてはならないと思う。映画の余韻に浸りながら、帰りの小田急線でパンフレットを読んだ。なかでも内田樹のテキストは誰しもが持つ「怪物」をいかに制御するのか、という個人的には映画から離れすぎた興醒めのテキストであり、やっぱりぼくなりの「怪物」の受け止め方を書き残しておきたいと思う。

映画は3部構成になっていて、それぞれの構成が変われば、早織(湊の母)→保利先生→湊と依里、このように視点が変わる。そうすれば当然であるが、見えていた世界が変わる。何が正しさなのかがわからなくなる。早織は息子の湊を守るための行動をとっただけだし、保利先生は生徒に対して暴力的であったわけではないし、湊は依里への想いを隠すために嘘をついてしまった。それぞれのロジックがあって、物語がすれ違うことは、この映画の基本的な構図である。こうした、ある事象の一辺しか見ることしかできないがために理解し得なかった状況があり、そうしたすれ違いを細かく回収していく脚本がすごい。私たちは自分からは見えない側面の存在に気づかず、勘違いをしたり、嘘をついたり、人を傷つけてしまう。そうした人間の脆さみたいなところに怪物さを見出すことも可能なように思う。だがしかし、ぼくの「怪物」に対する解釈はもう少し違う。「怪物」は私たちにとって必要で重要な要素なのだ。

「怪物」は執着する心ではないか?

「怪物」は必ずしも悪ではない。それは湊と依里が「怪物だーれだ?」という遊びで、カタツムリやブタを「怪物」として見立てて楽しく遊んでいることからも読み取れる。だから、大前提としてぼくの解釈では「怪物」は善/悪の話ではない。湊はナマケモノのカードを引いた時の何度目かのやりとりで、「怪物は星川依里くんですか?」と聞く。まさに湊にとっての「怪物」としての依里の現れであり、戸惑いながらも執着してしまう心の存在への気づきと言える。だから「怪物」は善悪を超えた執着する心なのだと思う。

湊の母親の早織も同じく執着する心を抱えている。それは母親として息子を想う気持ちであり、保利先生が辞めるまで動く姿にも現れている。(何度も言うが善悪の話ではない。)亡くなった父親と交わした「湊が家族を持つまで育て上げる」という約束への執着は、湊を追い込んでしまう結果へ繋がる。ちなみにその直後、湊は依里からの電話に出ようという執着から、走行中の車から飛び降りてしまう。こうした執着が交差する様子を映画は本当に素晴らしく描いているように思う。何かを想う強さの現れである執着する心こそが、様々なすれ違いの原因であると同時に、他者への愛として人間らしく出現する「怪物」でもあるのだ。

こう考えると、保利先生の描かれ方が逆の意味で印象に残る。いざこざに巻き込まれてしまうが、先生としては生徒にも好かれる、無難ないい先生である。人としてもあまり間違ったことはしない。押し問答しながらも、結局コンドームがないから彼女である広奈とセックスもしなかった。しかし、この無難さこそ執着のなさとしても読み取ることができる。記者が押しかけて、広奈が家を出て行ってしまった際も、強引に止めることもせず玄関の小さな窓から覗くだけ。家の整理で金魚を便器に流してしまおうという際も、結局は思い留まる。保利先生は確かに道徳的な存在ではあるけど、執着する心がない人物、すなわち「怪物」から最も遠い存在として描かれ続けている。

だがしかし、その保利先生にも「怪物」が生まれる瞬間が訪れる。依里の作文を添削しようとした時、鏡文字から湊と依里のことについて、ついに気づくことになる。保利先生は嵐も関係なしに、湊に会いに麦野家に向かう。ついに執着する心を手に入れたとも言える。ちなみに、保利先生が辞めた後にも関わらず学校に来て、湊を追いかけてしまった時は、自身の誤解を解きたいという利己的な感情であったことを添えておきたい。追い詰められて走る保利先生の片足は裸足で、もう片足はスニーカーを履いていた(と記憶している)。この描写は、徐々にスニーカーを交換しあった湊と依里へと近づいていることのオマージュかもしれない。つまり保利先生は「怪物(=執着する心)」を獲得することで、より人間らしく振る舞える存在へと変化していった人物とも言える。土砂崩れの危険を顧みず、嵐の中を湊と依里がいる方へ走っていくふたりは美しい「怪物」である。笑顔が硬くて生徒に怖がられると広奈に言われていた保利先生は、嵐の中でとても自然に笑っていた。そして、湊と依里が彩ったふたりだけの宇宙(まさに電車内に惑星を吊るしていた)へ天窓から入ろうとする早織と保利先生。掻き出した泥に雨が降り注ぐ天窓は、宇宙の星々のようにも見えた。

「怪物」こそ大切にしたい

これまで述べたことを踏まえれば「怪物は人間としての大切な心であり、ちゃんと育てよう」というのが、ぼくがキーワードとしての「怪物」から感じたものである。だから、内田樹が評する「恐ろしい怪物」とは異なるものを、ぼくは想像した。

映画「怪物」ポスター

映画のポスターを初めて見たとき、湊と依里の泥だらけの顔は、なんだか恐ろしい怪物が宿っているかのようだった。だがしかし、そのイメージは完全に塗り替えられたのだ。ぼくがポスターでみたふたり。そこから、教室で絵の具まみれになったふたり。そして、嵐の中電車が出発して泥まみれになったふたり。このイメージの変遷を経て「怪物」こそ大切にすべきものだと思うようになった。怪物は決して恐ろしいだけじゃない。

※内田樹氏のテキスト「怪物を制御する主体」はwebでも読めます。合わせてぜひ。

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