HUMARIZINE No.00 嘘
2019/06/28
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れいぽんが発起人となり、共同体としてのHUMARIZINEがはじまった。初めての号となるNo.00の制作では、松岡大雅とふたりで編集が行われた。出版に際して、クラウドファンディングを行い、思想に共感してくれる新たな仲間と印刷のための資金を募った。
なぜ人々は人間的感情を失い、自らの保身のために嘘に嘘を重ねていくのだろうか。そのような問いに対し、建築・都市・芸術といった私たちの持っている視点から考察しようと、「嘘」をテーマに掲げた。自らの実践、社会を構想するコラム、自己批評のための鼎談を掲載し、思想を打ち出していった。HUMARIZINEという出版活動ないし共同体が目指すべきものに対しての、宣言となる一冊である。
編集長:れいぽん
副編集長:松岡大雅
エディトリアルデザイン:れいぽん
表紙油彩「人間」:れいぽん
裏表紙書道「人」:細江澄日
はじめに No.00 嘘 によせて
れいぽん
平成が「嘘」にまみれて終わる。終わった。日本の為政者たちは、嘘に嘘を重ねる。民意を背負い、それを実現する立場であるはずの人間たちは、己の利益のために嘘をつきまくる下劣な存在へと成り下がってしまったのである。民主主義とはなんなのだろう。私の身の回りでも、嘘が溢れているのを感じる。恋人がいるのに隠れて浮気をし続ける友達や、大学の友達から大金をだまし取ったマルチ商法。素直に生きることなんて、誰でもできるはずなのに。なぜここまで人間は嘘をつくようになったのだろうか。嘘は、ついた人間の己の保身と利益のために生まれ積み上げられてきている。自分の社会的、経済的立場を守ろうと、法を遵守することに努め、他人や物事との関係を損得でしか考えられないからだ。そしてこのような人間は無意識に行動が規定され、決して社会の中の誰かの幸せのために法を乗り越え、自分を犠牲にすることはできないのである。日本は嘘つき大国家になったようだ。
人間的であるということは、今ここにある自分が感じることから思考するというような身体性を持って、外部から偶発性を生み、行為するということだと考える。平成が終わった今、人々は人間的感情を失い、機械以下になっている。昭和とともに人間から自己保身や利益を考えずに仲間のために行為できる能力が失われ、平成とともについに人間から人間的であるということが失われた。
バブル以降の経済破綻によって人々は社会的圧迫を受けた。そして人々は神経症的なまでの、自己保身、自己利益のための法の奴隷となり、テクノロジーの加速とともにやがて身体性までもが失われていった。身体性を消失したことによって人間的感情を失った人々は嘘をつきまくるようになった。大嘘つきが国家の政治的トップを担っている社会はもはや救いようのない状況にまで達してしまった。令和になった今、私達は人間ですらなくなってしまうのかもしれない。
そんな中、今は人間の平等や自由を求める運動が世界的に白熱しており、日常でもその影響を重々感じる。社会的弱者だとされていた者の権利や立場が、やっと変わったのだ。このような動きは、人間の本来的なあるべき姿を目指すものであり、身体性の回復、人間的であることへの追求であるとも言える。しかし一方で、その運動体自体がイデオロギーの対立をつくり出していることのほうが大いに見受けられる。特にSNSでは匿名で意見を述べることができるために、身も蓋もないことが延々と議論されているのも実情だ。そしてそれは新しい弱者を作り出したり、新しく誰かを傷つけることにもつながっている。イデオロギーを盾に内省しないことは、結局のところ保身に走って嘘をつき続けることと同義ではないだろうか。これでは社会は変わらず、同じ過ちを繰り返すだけだろう。このままでは社会も、何も、前進しない。イデオロギーに縋り付くのではなく、真実に向き合い、人間的であることを追求しなければこの嘘にまみれた社会を乗り越えられない。社会という大きな枠組みの中で人間的であるということを、身体性を取り戻すために、私は、何ができるのか。どうすれば嘘はなくなるのか。
これから、私の実践をこの嘘にまみれた社会の中に位置付けてゆく。HUMARIZINEによって実践と批評を繰り返すことにより、「人間的である、ということへの追求から社会を拓く」というステートメントの実現を目指す。今号は建築・都市・芸術といった視点から「嘘」を考察し、コラムや鼎談という形をとって思想を打ち出していく。出版にあたってはクラウドファンディングを実行し、思想に共感してくれる新たな仲間を募った。そして今後も HUMARIZINEを一つの媒介に、人間的であることを共に考え、追求し続ける共同体をつくっていくのである。以上の宣言によって、そしてこれに続く社会実践によって、まずは損得でしか物事を測れない人々で溢れる社会を問い続け、世直しするところから始めたい。人間的に生きることを求める、私自身の身体性を持って。
路上生活者の家から建築、そして社会へ
松岡大雅
本実践では、路上生活者の家に関するリサーチを通して、建築と資本主義の関係性を考察する。路上生活者のリサーチに終わらず、自ら河川敷の路上生活者となり家を建てる実践を行った。そのフィールドワークと建築実践から見つけ出した、建築設計が扱ってこなかった領域と資本主義によって失われた創造性に注目することで、社会課題の解決を目指すとともに、現在の建築が抱える問題点を指摘していく。
西欧人に見る自己責任と日本のコンビニの廃棄食品
れいぽん
れいぽんはHUMARIZINEという実践の中で、自分なりの領域における実践は何かということを模索している。 れいぽんの興味分野である芸術、都市、そしてそれを包括する社会をどのような視点で見てどのように実践をしていくのか。これから一年間をかけて実証する。今号では春休みに1ヶ月間滞在したヨーロッパでの気づきを、自身の社会に対する問題意識と結びつけ、実践を試みる前段階である現時点での考察を論じる。
建築の美学と悪しき慣習
松岡大雅
建築界が抱える今日的な労働問題に端を発し、旧態依然のアトリエ系設計事務所と大学研究室を批評する。それらの機関が描いてきた、理想とされる建築家像について言及し、それを築き上げたコンペ型階級制度がアカデミアを浸食している点を危惧する。最終的には、建築の美学としての歴史を肯定しつつも、それらによって生み出された悪しき慣習を否定し、建築の更新へ向けた可能性を提示する。
アートとフェミニズムから考察するポリコレのその先
れいぽん
れいぽんはこれからアートという領域で実践をしていく上で、現在のアート界の構造を理解することが必要だと考えた。特にフェミニズムという運動が台頭している現代は、アート界でもその問題について考えることが必要不可欠だ。一方で、運動自体がイデオロギー化しているのも事実だ。イデオロギーに縋り付くことを批判し、それを乗り越えるために必要なことを再思考する。
HUMARIZINE創始によせて ーHUMARIZINE の目指す共同体、人間的であることを思索するー
松岡大雅×れいぽん×連勇太朗
今回鼎談に参加していただいた連勇太朗さんは、れいぽんと松岡大雅が2016年度から二年間参加していた SBCというプロジェクトの指導教員であった。連さんはものづくり初心者の二人にデザインとは何か、どのようにデザインするの かなどあらゆるスキル・思想を叩き込んでくれたデザインの師匠。モクチン企画で建築という分野から社会にアプローチをし続ける実践の師匠。そして大学時代は二人と同じく小林博人研究会に所属し、ちょうどれいぽんより10個上の世代という人生の師匠でもある。創刊、発足にあたり、二人の師匠である連は HUMARIZINE をどう見るのか──連さんの思想や社会に対する視座をもとに HUMARIZINE をどのように捉えるのか。三人での鼎談を通し、未知の領域である HUMARIZINE の可能性を探っていく。
HUMARIZINE 刊行によせて −判断を「ある程度」引き戻すこと−
村松摩柊
私たちの行う実践を実践者目線のみで語るのではなく、社会学や哲学に造詣のある人に批評してもらうことによって、議論がより価値のあるものになるのではないかとHUMARIZINEは考える。No.00「嘘」では、 社会学や哲学を勉強している友人の村松摩柊を批評者に、「責任」や「判断」という視点から、私たちの実践そしてHUMARIZINEを社会の中に位置づけてもらう。