はじめに「産地 Farming Habitable Land」を考えるにあたって
松岡大雅昨年の夏に新しい試み「HUMARIZINE」がはじまった。No.00では「嘘」をテーマとして取り上げ、自分たちの身体性や人間的であることとは何かを考えた。悲しいことに、前号の「はじめに」は昨今の日本の状況を鑑みると、より痛烈な批評として完成してしまった。まるでRCサクセションのサマータイムブルースのようだ。
HUMARIZINEはそんな悲壮感漂う現代を生き抜くための共同体として立ち上がった。誰かのためにというよりも、自分たちのために立ち上げるしかなかった。1年前に感じたその切迫感は、今年の新型コロナウイルスによる混乱によって、より一層強く突きつけられている。ぼくたちは、明日自分や家族が感染するかもしれないウイルスの恐怖と、数十年後に人類が滅亡するかもしれない不安に苛まれている。今、ぐらついているぼくたちの足元から、今号の思考をはじめたい。
パンデミックによって、ぼくたちの生活は危機的状況に陥った。ドラッグストアからマスクや消毒液、ましてやトイレットペーパーまでもが消えた。マスクをせずに外出することは、マナーの域を超え、まるで反社会的行為のように扱われた。終息という大義のもと、人々の多様性を保証するための自由たちが、じわりじわりと奪われていくことに違和感を覚える。いまや、自分の身を守ることと、他人を感染させないことへの恐れ以上に、実体のない誰かの目を恐れなくてはならない、神経質な世の中になってしまった。そして危機に晒された市民の一部は、自分の物差しで他者を測り、公園から親子を締め出し、店舗に自粛の圧力をかけるようになった。そのような暴力的行為は、気づかないうちに大きな分断をうみ、誰かの人生や権利を追い詰めている。精神がすり減ってしまう、このような日常だからこそ、無批判に大きな言説に頼ることはせず、少しでも多くのことを自分で思考するような身体性が求められているのではないだろうか。
HUMARIZINEではウイルスによる脅威に直接的に対処するような実践や構想を行う予定はない。今号で集録する実践や構想は、コロナ以前から存在する無視できないあらゆる問題たちに、様々な角度から切り込んでいる仲間たちによるものだ。パンデミックに対する疫学的な対処をある程度全世界が行えていることを鑑みれば、No.01で扱う問題系はそれよりも遥かに複雑で、より長期的に向き合う必要のあるものだ。とりわけ人新世と名されるこの時代で、人類がつくり上げてきた様々なシステムに対する早急な見直しが迫られている。さもなければ、気候変動などによって(人間を含む)多くの生態系が、今よりもさらに甚大な被害を被ることとなる。これはあまりにも大きい問題に聞こえるかもしれないが、ぼくたちはそれを念頭に置いて生きなくてはならないフェーズにいる。そして、その問題に向き合う際に、知恵を結集できる仲間(共同体)と議論を発展させるメディア(ZINE)をつくることが大事だと考えている。
「今ここにある自分が感じることから思考するというような身体性を持って、外部から偶発性を生み、行為する」とれいぽんが宣誓したように、思考のはじまりとしての自分の身体性が求められている。それは昨今のコロナ禍における人々の言動にも共通することであるし、ぼく個人にも共通することだ。廃棄物を建築に転用する手法についての自らの研究は、社会が要請する廃棄処理の効率化や資源の有効活用だけを達成するためだけのものではない。それ以上に、人間とマテリアルの望むべき未来を描くための大きな思索を行っているのだ。リサイクルの効果や度合を定量化し、統計的に導き出された数値や百分率の表層をなぞるだけでは、根本的に見直さなくてはならない廃棄物と人間の関係性の議論を棚上げするばかりだ。
それは、環境問題に対処するために設定されたSDGsが、企業のマーケティングを効率的に行うための指標と化している状況にも近いように思う。SDGs目標のXX番にコミットしています、というような市場へのアピールが、本質的なサステナビリティの追求抜きに先行するような状況に危機感を覚える。そもそもSDGsは強い人間中心主義的な思想に基づいており、人類の繁栄のために地球を計画的にコントロールしようという、近代的とも言える態度が伺える。このような人間/非人間や文化/自然の二元論的な前提を継続し、主体(人間・文化)による際限なき客体(非人間・自然)の支配と収奪を正当化し続ける姿勢こそ、今まさに私たちが議論すべきことではないだろうか。
こういった現在の社会状況を前にして、ぼくたちにとってまず大事なのは、HUMARIZINEの試行と思索の土壌を育てることだと考えた。そして、それを暫定的に「産地」と名付けることとした。個々の論考から惑星的課題まで、幅広く誌内で議論していき、それを「HUMARIZINE No.01 産地 Farming Habitable Land」として出版する。ぼくは「産地」に、これから複雑な問題群に立ち向かっていくときの手がかりを求めたい。そして、それらをHUMARIZINEという共同体を通じて考え、育てていきたい。
これらを考えていくにあたり、第1部にあたる「社会の中で実践する/Practice in Our Society」では、人間の身体と文化や土地などを通じて「産地」を考える手ががりとなる実践を集めた。れいぽんの「コンビニのアルバイトから考える̶̶ 廃棄食品と循環、土と都市」では、コンビニ店員として廃棄食品に向き合ったフィールドワークを通じて、インフラ化したコンビニの役割とこれからの都市生活を結びつけ、アスファルトの下に隠された土を起点とした都市デザインを展開する。小梶の「私的実験の場と学問的研究の場のあわいで」では、人間にとってプリミティブな食と五感をリサーチ対象とし、ときに現代的なデザイン手法を、またあるときは古典的な調理法を用いて、アクロバットに料理と人間を再接続し、私たちが直面する数々の問題に挑んでいく。村上の「ブランドAyという実践の場で現地とともに「衣」を紡ぐ」では、人々との丁寧な協働によって、コンゴと群馬というふたつの文化や地理を超えてブランドを展開するその過程から、差異の間での実践知について思考する。
佐野の「災害都市と共に生きるための、未来の衣生活に関するデザインフィクション」では、人新世における気候変動が生み出した「極限環境となった都市」において描かれる生活者の衣服をサイエンスフィクションの創造性を用いて思索することで、複雑に絡み合ったアーキテクチャによって管理された排他的都市空間を、戦術的に生き抜くための身体と衣服をデザインする。
続いて第2部にあたる「社会の中で構想する/Consider in Our Society」では、社会全般において議論が活発になされている領域のなかでも、「産地」にまつわる対立や連帯を考えるための構想を集めた。藤原へのインタビュー「アクティビズムから語る未来、そしてその可能性」では、環境アクティビストとしての活動の背後にある思想や個人的な実践を伺い、それらをともに振り返りながら、私たちが現代的問題に対峙していく方法と、その可能性を探る。村松の「祝島誌」では、日本の離島へのフィールドワークを通じて、そこでの暮らしから見える住民の関係性や島の生活に起こるリアルな問題に対して自分の介入方法を探る。石井の「「感覚」をフィールドワークする̶̶ アバシリから二風谷の森、そしてアイヌの物語世界へ」では、アイヌの人々との共同生活と口承文芸に関するリサーチを通じて変化した自分の知覚を記述することから、共感関係で社会を捉え直すことへの道筋を立てる。松岡の「廃棄/分解/制作」では、ゴミを利活用するものづくりのプロセスを、素材と身体の関係性と捉えて評価することによって、これまでのリサイクルとは別のサステナビリティを思索する。
最後に第3部にあたる「自らを批評する/Criticise Ourselves」では、ここまでの議論を振り返り、自己批評を込めながら、「産地」に関しての見識を深めていきたい。同世代で社会思想史を専攻する林に「産地 Farming Habitable Land はいかにして可能か?̶̶ 制作、物、世界をめぐる思想」と題して、本書全体に対する批評を行ってもらう。そして、「産地 Farming Habitable Land」を総括する、松岡の「おわりに 「産地」とは何だったのか?」をもって今号の結びとする。
以上のようにして、1冊のZINEをつくりあげたときに生まれる「産地」は、途方もなく大きな問題と小さな私たちの生活や実践を結びつけてくれると思っている。このNo.01「産地」は、今後何十年と続いていくHUMARIZINEの出発点となり、随時更新する信条となるはずだ。長く険しい道のりを生き抜くために、まずは、今ここにある自分が立っているこの「産地」について考えるところからはじめていく。